男子手芸部

手芸部員1と2の生まれたことへの贖罪

平成29年10月2日

今日はベランダから中央線を眺めた。

ラスベガスで20人が死んだ。

200人が大怪我をした。

70億人いる直径1.3万キロ地球で。

130億光年以上もあり今なお広がり続ける宇宙で。

人は生まれる。

人は死ぬ。

正直ニュースを見たときは他人事にしか思えなかったしゲームだったら2000ポイントもらえるなとかしか思わなかった。

殺された人間は本当に価値があるのか。

自分には価値があるのか。

人類史はじまって何人生まれて何人死んだか。

夢の中で何度も死んだ。

非常にリアルだった。

殺される瞬間はすぐに死を受け入れた。

人間とは実に自己中心的である。

果たして我々が思うほど我々には価値があるのだろうか。

物体が意思を持って動いているだけである。

意思とは一体なんだろう。

なぜ存在するのだろう。

目的はなんなんだろう。

人間原理というのがある。

人が認識したものだけが存在を認められるというものだ。

我々は人間以外のなにに認識されているのだろう。

生まれることに意味などない。

生きることに意味などない。

死ぬことに意味などない。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年10月1日

今日はベランダから中央線を眺めた。

誤解とは最も面倒臭い事象のひとつだ。

英語を和訳したような文章を書いて申し訳ないがその通りなのだから許していただきたい。

いつものように10人中2人くらいしか理解できないユーモアを含ませる余裕もないので直接書かせていただく。

約分しろよ。

さて社会で生きるにあたって人との接触は不可避だが意図しないものが他人に解釈されてしまうことがある。

これが誤解なのだがこのいわゆる誤解というのは二者間で直接のコミュニケーションがない場合に多くみられる。

正確には直接のコミュニケーションがある場合はすぐに解かれる場合が多いと言ったほうが良いだろう。

悪いタイプの誤解を抱かれた場合通常のコミュニケーションをすることすら難しくなるため解くのが面倒である。

この先書くのも面倒だ。

つまりいまそういう状況である。

ああめんどうだ。

このブログで面倒臭いと何度言ったことだろうか。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年9月30日

今日はベランダから中央線を眺めた。

 ニコチンが切れていて全く頭が働かない。

金はあるのだが家を出ることができないのだ。

このブログで書いたかは忘れたが暇すぎて家の隣の学習塾で塾講師をしているのだ。

しかしここ数週間全く電話に出ずサボタージュをしているので合わせる顔がないというわけだ。

三度の飯より、恋した人間とのセックスより、ニコチンが好きなのでどうしようもない。

余談だがいつもスターをくれるid:meshigakuitai 氏のサイコアクティブはもちろん実践した。

非常用に保存してある手巻き用の葉も全て使い切った。

残っている一本一万以上もするコイーバを使うのはなかなかもったいない。

しまいにアメリカンスピリットペリックが売っているコンビニは遠い。

ああ面倒臭い。

こんなことを書くつもりは毛頭なかったがあまりにも思考の邪魔をするので仕方ないことにしてくれ未来の自分。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年9月29日

今日はベランダから中央線を眺めた。

小さい頃から同級生等から叩かれていたこともあり近頃確信したことがある。

叩かれる人間はリアルでもネットでも叩かれるということだ。

インターネットが普及し発信する人間のサンプル数が増えてきた昨今ではそれも顕著である。

未だにリアルで弱いギークがインターネット上で調子づいているなどと思っている人も多いだろう。

しかし一億総パブリッシャー時代ではリアルの勢力図がそのままインターネットでも反映されるのだ。

私事になるが仕事のための実名アカウントでも趣味のための匿名アカウントでも自分は叩かれているのだ。

人に迷惑をかけた覚えはないがどうやらアンチと呼ばれる人間を引き寄せてしまうようだ。

叩かれるようなことをしている自覚がないわけではないが。

リアルで叩かれている方へのインターネットの使用は勧めない。

叩かれるのが好きな人間以外は。

このブログも叩かれるときが来るのだろうか。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年9月28日

今日はベランダから中央線を眺めた。

もはや昨日のことである。

作者急病のため本日は休みますと書こうと思ったのだが案外書ける体力はあったので昨日のぶんを書くことにした。

今日(昨日)はなんとメイドカフェでクリスタルランクになってしまったのだ。

クリスタルランクというのは200回来店した者に与えられる称号なのだが、約半年の間で毎日ないし二日にいっぺんのペース、つまりこのブログより少しサボり気味に通い詰めた。

この読む側も書く側も気が狂っていそうなブログも2ヶ月以上続けていると思えば本当に気が狂ってしまったのではないかと思う。

こんなどうしようもないものを毎日読んでいる人間もわりかしいるとデータが宣っているのでなんだか申し訳ない気持ちになってくる。

まあ、ユーチューバーのHIKAKIN氏も誰も見ていないときから毎日動画をアップし続けてここまで上り詰めたと言っていたので見習ってみようと思う。

しかしこのブログがたとえ月間100万PVをこえたとしても広告収入を得ようとは1ミリも思わないのでとうとうなんのためにやっているのかすらわからない。

ビジョンのないものは実を結ばないので実を結ばないことが確定しているものをずっと続けるという罰ゲームはホロコーストよりも壮絶だろう。

眠たい。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年9月27日

今日はベランダから中央線を眺めた。

様々な服装をした人が歩いている。

自分は見た目で人を判断するが、自分の服装はそこまで気にしたことがない。

仕事のない日は都心であれ部屋着のような格好で髪もセットせず帽子を被り出かける。

しかし今日をもってそれもやめることにした。

ラフな格好をしている日ほど道行く人や店での対応が悪いのだ。

明らかに態度が悪かったり、トイレや出入り口に近い席に通されたりする。

高そうな服やドレスコードなどの利便性を知った。

むしろ昔の冠位十二階などが復活してほしいと心から思う。

権利者本位の決まりなのでそれはないだろうが現代では形を変え少し分かりづらくなっただけだと理解しておこう。

無駄なプライドかもしれないが素直に自分より社会的ステータスが低いような人間に無下に扱われたくないというのが本心だ。

仕事ですらない上に割と慎ましく生きているのにそこまで寛容に振舞うことを求められるのはお門違いだろう。

はあ、肩ぶつけてきたやつとか全員絶対許さないからな。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年9月26日

今日はベランダから中央線を眺めた。

東京は地元よりは外国人が多い。

いつものように偏見というか常識というか、そんな話をするのだが。

人種差別だとか言うが差別意識を持つのは我々は全く悪いとは思わない。

なぜならどうやっても抗えぬ幼少の頃から我々は「肌の色が濃い人間ほど文化レベルが低い」という情報を植え付けられていたからだ。

明治維新の頃から西洋化していきしまいには名誉白人などと宣っていた我が国ではそれは顕著だろう。

そもそも日本というスケールだけで考えれば、開国を迫ってきたあしながおじさんもとい西洋人が黒人であったらどうだっただろうか。

列強と言われた国々が黒人の国だったらどうだろうか。

日本人はもしかすると白人を差別していたかもしれない。

今ではきかないがしろんぼという言葉もあり白人を「自分たちと違うもの」として捉えていたのは事実だ。

その通り差別の意識というのは「自分たちと違うもの」という意識でありこれは本能的なものなのだ。

必要以上に貶すことはないが差別意識を持つのは自然なことなのだ。

電波ジャック事件を装ったただのメッセージビデオだが最後にこれをみていただこう。

The Wyoming Incident (Original Upload) - YouTube

今日はベランダから中央線を眺めた。