男子手芸部

手芸部員1と2の生まれたことへの贖罪

平成29年8月8日

今日は学園都市線を眺めた。

同じ場所から見ればいつも景色は変わらない。

人は変わらない。

住む場所があり、社会があり、ものを食べ、仕事をし、遊び、寝る。

人の根幹は何世紀何十世紀経っても変わらないのだ。

これが変わると思っている人たちはむしろ幸せだとすら感じる。

火が発見されて、土器が作られて、鉄器が作られて、鉄道ができて、電気が発明されて、電話が普及して、コンピューターが発明されて、スマートフォンが普及して、人は働くことを辞めただろうか。働く時間は減っただろうか。恋愛ものの創作物が売れなくなっただろうか。

人々が感じている先への不安は杞憂でしかない。

もっと言えばマーケティングに利用されているだけなのだ。

皆踊らされ他人の考えを自分で考えたものだと勝手に勘違いし同じことを考え同じこと、つまりその他人の言葉ばかり発言する。

しかし全員同じかというとそれが違うのは自明で一握りの「踊らせる側」がいるのだ。

それはすぐそこにいるかもしれないし歴史のずっとむこうにいるかもしれない。

ただ確実に言えるのはその影響をあたえる者が居るということだ。

それは、自覚の有無は抜きにして、この変わらない世界のバランスを保つ者なのだ。

変わらない世界の本質を汲み取り維持する者なのだ。

ああたのしく生きたい。

今日は学園都市線を眺めた。

平成29年8月7日

今日は学園都市線を眺めた。

相変わらず一時間に数回ガタンゴトンと音がする。

朝は滝の音で目が覚める。

悪くない。

いちいち入力するのも面倒なので日付は変換機能で書いているのだがその日の日付を入力するのに「きのう」と打っているのが多くなんだか変な気分だ。

結局これも相対的観念を押し付けているのかと思ったり思わなかったり。

毎日がなんとなく楽しい。

友人が少ない、多くの人にあまり良い印象を持たれていないながらも友人はいるし、仲もいい。

しかしなんの戸惑いもなく眠りにつけることはほぼなくどうしようもない心の鬱屈としたものを抱え煩悶している。

変えられない過去が、ルサンチマンが、目に見えるもの耳に触れるものすべてに理想を見出しそれを敵に仕立て上げるのだ。

くだらない見え透いた映画の広告、頭の悪そうな学生、カフェの店員、店の商品、公園、木のベンチ、すべてが羨ましくすべてが敵に見える。

隣の芝は青い、青すぎて青中毒で死んでしまいそうだ。

いま自分は自分の器以上のものにならんとしている。

実際は小さじ半分程度なのに自らを奮い立たせるための虚勢と見栄で人々に幻を見せてきた。

正直どうしたらいいのかわからない。

もう後戻りはできない。

せめて親指の爪程度になりたい。

今日は学園都市線を眺めた。

 

平成29年8月6日

今日は学園都市線を眺めた。

こちらも政令指定都市で市の中心部まですぐなのだが中央線に比べ本数が圧倒的に少なく心地の良い静けさ、否寂しさがある。

アナウンスや電車の音を子守唄にしていたのだが終電も早いためそれは叶わない。

今日はよくめんどくせえという言葉を口に出した気がする。

人と話さないだけでいつも心では思っているのだが口から出るとやはり際立つ。

昔漫画のキャラに憧れめんどくせえと意識的に言っていたらいつの間にか無意識のうちにめんどくせえと言うようになり学校を面倒くさがり、仕事を面倒くさがり、人との繋がりも面倒くさがり、ついにめんどくせえ人間になってしまった。

めんどくせえと言い続けることで自身が「めんどくせえ」になってしまったのだ。

これは大きな発見である。

なんでも言い続けることによって実現が可能なのだ。

俗に言う引き寄せの法則とやらだろうか。

石油王と言えば石油王になるし女子高生と言えば女子高生になることができるのだ。

言葉の力は大きい。

よくあるマルチとかネットワークビジネスとか彼らのような言い方はしたくないので論理的に説明しよう。

人間の脳は言葉をすべて自分を主語に認識してしまう習性がある。

つまり「あいつはブスだ」と自分または他人が発すると「自分はブスだ」と脳内で処理されてしまうのだ。

だから女性がよくなんでもかわいいと宣うのはかわいいという言葉自体に快楽を得ているからなのである。

非常に納得がいっただろう。

そういうことなのだ。

ああ、死にたい。

今日は学園都市線を眺めた。

平成29年8月5日

今日は学園都市線を眺めた。

奇しくも宿泊先にも目の前に電車が通っているのだ。

そして都会の喧騒から離れたかというと微妙なところである。

だが瞬間的に忙殺された昨日から解放され気分は多少よくなった。

特に今日はなにもしていない。

今日は幸せの定義について考えた。

そもそも「幸せ」という言葉がなければ人間は生か死か、それしか生活の中で良悪がないのではないかと考えた。

特に人類数十万年の歴史のなか言葉ができる、また安全な生活ができるようになった直近4,000年程度しか幸不幸の概念は歴史がないのではと思う。

この先人工知能がいくら発達しようが人の仕事がなくなることはないとは思うが、もしも、人の仕事がなくなりすべてから解放されたときその概念はまたなくなるのではと思っている。

幸不幸の概念は相対的な指標である。

つまり絶対的な幸不幸とは生死なのである。

生死が細分化されたものが幸不幸なのではと考える。

続きはまた今度。

今日は学園都市線を眺めた。

平成29年8月4日

今日と言うべきか昨日と言うべきか、ベランダから中央線を眺めていた。

真っ暗闇のなか仕事に追われPCとにらめっこしていると思えば数分前に研いだと思われた米が炊け、空が嫌というほど明るくなり、いつの間にか空港にいた。

もうなにがなんだか理解も追いついていない。

もううんざりだ、まるで我が人生のような日だ。

すべてに辟易している。

キーボードのタッチさえままならない、歯が痛い、前頭葉に水銀が入っているようだ。

勘弁してほしい。

しかし先程一時間は確かに生産性のある、脳をフルに用いた有意義な時間だった。

あれなにをしたっけ。

ああもうどうでもいい、静かにしてくれ、罰ゲームはこの素晴らしい人生だけでじゅうぶんだ。

いくらでも贖罪します。

おお、主よ、赦してください。

I've spent all my years believing you, but I just can't get no relief, Lord!

明日からは学園都市線を眺めることになりそうだ。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年8月3日

今日はベランダから中央線を眺めた。

電車や人の流れを見ていると一度流れた時は戻らないというのを実感する。

本音を言うと過ぎ去った1秒1時間1日1年などどうでもいい。

学生の頃に戻りたいと思う節もあるが他人に言われたときふと想像してしまうだけである。

時が流れているあいだこの先いつ死が我が家をノックしてくるだろうという考えばかりが先行してしまう。

こんなことはもう10年以上前からそうだ。

かと言って悲観的に日々を過ごしているわけでもなく社会に対し積極的な行動はできていると思うし能動的にそれを選ぼうとは思わない。

たぶん、"一般的な"、石油王になりたいとか有名人になりたいという思念と似ていると思う。

死に対してその先の苦難や未知の領域には全く想像がついていないししようとも思わない。

この文章を通してなにかを伝えたいわけでもなくただの雑感垂れ流しである。

とりあえず、不快な思いをせず徒に与えられた人生をのうのうと暮らしたい。

ジョハリの窓的にいうと右ふたつの領域がほぼなく自分のいいところも悪いところも全て知っているので誰にもなにも言われず過ごしたい、ああそれだけ。

今日はベランダから中央線を眺めた。

20170803 でかい蛾

おはようございます。と夏休みの時期なので私は元気な少年のごとく家を出た。

 

でかい。すごくでかい蛾がおはようと微笑み、言葉を返してくれた。

 

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 クチバスズメというやつらしい。モモスズメというやつによく似ているんだとか。

まあどうでもいいが。

 

こいつほど大きい蛾ならもはや美しさというか好意を感じる。

色は暗鈍であるが、フォルム、表情が良い。

他人に嫌われようが自分には関係ない。知ったことか。と言わんばかりの迫力は私を魅了してくれる。

 

それにこのクチバスズメ君、初めて見た日から4日ほどその場を動かなかったのだ。

その迫力のせいもあり私のここ数日はいつになく精力的であったように感じられる。

 

彼が離れてしまったことに気が付いた日には少しの寂しささえ感じた。

彼は私にかっこいい生き方を示してくれた。

 

寡黙、しかし大胆に。

 

今日はとっても楽しかったね。明日はもっと楽しくなるよ。