20170723 蛾
今日もやることがあったので意識せずとも外に出る事ができ、まあまあ晴れやかな気分であった。
家を出てみると外は明るいにも関わらず小雨が降っていた。こういう日は傘を持って外に出るべきか迷う。
どうせ帰り際には止んでいるであろうし、もっと言ってしまえば家を出て10分くらいで止んでしまうかもしれない。
そんな時、もし雨が降っていないにも関わらず傘を持っている人間を見ると間抜けな情弱に見えるのではないかと不安になるからだ。
「あいつwwww天気予報ちゃんと見ろよ」とか思われてしまったら死んでしまいたくなる。
まあ、そんな話はどうでも良いとして今日の出会いの話をしよう。
また踏みつぶされた蛾と出会った。
なぜこうも蛾は踏みつぶされる運命にあるのか。
一応こいつの名前を調べようとググっては見たが、いかんせん本来どんな柄であったのかがよくわからなかったので諦めた。
この蛾は以前紹介させていただいた蛾よりは大きい種類であった。
それだけは素人の私でも分かる。だからどうしたという話ではあるが。
私は蛾の触角のモサモサしている感じが嫌いではない。蝉の顔なんかは少し注視しているだけで気分が悪くなるが、蛾の顔は20秒くらい見ることができる。
首の周りに毛が生えているところなんかもなかなか良い。
蛾は飛び方、習性によって明らかに不遇な扱いを受けている。蛾も蝶のように昼間余裕ありげにその辺を飛んでいれば良い。
第一印象の悪い奴でもそいつの良いところを見つけてみようね。みたいな。
今日はとっても楽しかったね。明日はもっと楽しくなるよ。
平成29年7月22日
今日は一日中ベランダから中央線を眺めていた。
休みというのは一日ダラダラ過ごすものなんだというのをどこかで見かけ妙に納得してしまったからというのが大きな理由だ。
かと言ってなにかしらの罪悪感はあった。
一日一日を全力で生きる、みたいな誓いをいつかした気もするからだ。
ダラダラ過ごしたらあっという間昼過ぎ。スケジュールはガラ空き。(National Holiday/B'z)
やることがないのでいつもより多く物事を考えた。
人々は本質を捉えず生きていく。
否、目を背けて生きていく。
本質を追求すると不幸になることを本能的に知っているからだ。
本質を語る人間は皆不幸に見える。
本質を得る過程で不幸になっているからだ。
本質を語る者と共に時代は進歩してきた。
時代の進歩には欠かせないのだ。
本質を全く捉えていない極端な例としてカーゴカルトがある。
宗教とは指導者のエゴである。
政治も宗教の一種である。
時代を進めるには狂人的ないしは聖人君子的な教祖が必要である。
これもまた極端な例だがドイツのアウトバーンや薬学、自動車産業の急進はかのヒットラーの功績であると言っても過言ではない。
権力で私腹を肥やすのを悪とし、人類の成長に自らを生贄にはらう姿勢こそ必要とされているのである。
眞の天才は、殆ど不可避的に自分自身で、その世界歴史への登場を告知する。 ―アドルフ・ヒットラー
今日はベランダからずっと中央線を眺めていた。
20170722 ニイニイゼミ
予定、やるべき事がある日というのは何と素晴らしい事なのだ。やっと社会と一体になれたと心が晴れやかになる。今すぐやらなくてはいけない事がない日なんて1日中悶々としながら怠慢の限りを尽くさなくてはいけない。
予定があったので外に出た。その途端また出会いが。
セミだ。ひっくり返っている。
素人の私はしっかり翅の柄等を見て種類を判別したかったので、こいつをひっくり返そうと足で突っついた。その途端こいつは「ジジッ」という情けない声を出して弱々しく動いた。もし私が眠りの邪魔をしたのなら申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
しかし、セミなら、夏の昼間を煩いほどに彩っているセミならばセミらしくもっと力強く、私が驚くほどに動き出して欲しかった。
翅の柄、大きさから考えるとニイニイゼミだろう。
こいつは昼間甲高い抑揚のない鳴き声で絶えず鳴き続けている。夏のソプラノパートリーダーという事にしておこう。
もし日本の夏にこのニイニイゼミしか存在しなかったなら、少子高齢化社会はより酷いものになっていただろう。そういう鳴き声だ。
しかし、仲間のセミが色々な声で鳴いてくれているお陰もありニイニイゼミも立派に日本の夏を彩ってくれている。
単体では嫌な奴かもしれないけど、大勢の中にいれば良いスパイス。みたいな。終。
平成29年7月21日
今日も中央線を眺めた。
朝は大江戸線を眺めた。
蒸し暑い地上から蒸し暑い地下へ潜り、大江戸線を眺めた。
昨晩、けだるい会議を終えた頃中央線はなかった。
仕方なく、汚れた街で一晩を過ごすことにした。
以前この汚れた街に住んでいたことがあった。
懐かしさとともにネガティブなことをどっと思い出した。
少し高めの寿司チェーン店に入り蟹の味噌汁だけを頼んだ。
この恥ずかしい告白になんの言い訳もない。
席で女を呼んだ。
ホテルの代金も含め5万円だった。
汚れた街で汚れたことをした。
見る限り歳は大して変わらなかった。
途中で途方もない虚しさが汚れた我が身を襲い行為を切り上げた。
明朝薄暗く時間のわからない部屋の蒸し暑さで目を覚ました。
世の中は矛盾でできている。
誠意と言いながら誠意を見せない政治家、ダイエットと宣う食品の広告、一人で生きると言いながらコンビニに行く人。
無矛盾な公理的集合論は自己の無矛盾性を証明できない。
自己には自己の正解があり矛盾があると簡単に考えようとする。
そういうことにする。
考えないことは楽なのだ。
まとまりを考えずに文章を書くというのはなんて楽なんだろう。
今日はベランダから中央線を眺めた。
平成29年7月20日
今日はベランダから中央線を眺めた。
夕方の日差しが眩しかったが気温がそう高くなく儚げに感じた。
けだるい会議を控えていたからだろうか。
いつも通り特に忙しいわけでもないので日々8時間は睡眠をとる計算なのだが、たいてい5時間ほど寝ると起きてしまう。
たぶん肉体的に疲れていないからだろう。
高齢者にも同じような生活習慣が伺えるがこれもまた同じような理由だと思う。
羽田圭介氏の著書「スクラップ・アンド・ビルド」において提起されていたが老人への対応としての「優しさ」とはなにかというのを考える。
本当に当人のことを思っているのであれば健康を考え例えば電車で席を譲らず立たせるだとかよくある老人への「優しさ」としておんぶするのはよくないだとか。
一般的にそちらのほうが見栄えがいいため見かけの「優しさ」を優先したほうが自分のためになるがそうしたくないという葛藤がよくある。
筆者は見栄えを気にしてしまう。
できればスーツなど着たくないが着てしまう。
見知らぬ人に絡まれたとき、本当であれば暴言を吐きたい。
この世は偽善者、スノッブばかりと憂いながら自分もその一員になってしまっている。
自分のほうが賢いと自分に言い聞かせながらときに人を見下しのうのうと生きているのだ。
こんな歳でも未だ万能感が抜けず、主人公を気取っているのだ。この文章から自己陶酔が滲んでいるだろうから一目瞭然だろう。
少し涼しい夏の夕暮れ。
今日はベランダから中央線を眺めた。
平成29年7月19日
今日はベランダから中央線を眺めた。
湿った空気と換気扇の音が東南アジア諸国を想起させた。
煙草を一本吸った。
半分吸ったところでやめた。
人は同じコミュニティ内に現在の自分と同じような人間、または直近数年以内の過去の自分と似た人間を比較的嫌う傾向にある。
過去に自分が嫌った自分を想起させるからだ。
嫌われた人間というのはたいてい他の人間にも嫌われる。
つまりたいていの人間は同じような過去を持っているということだ。
人より成長のスピードが早い人間ほど心を許せるような人間が少ないことが多い。
しかし相対的に見てある一定の領域まで成長した人間は逆に仲良くできる人間が増える。
「赤ちゃん」「小さい子供」が可愛がられるのはこのためだ。そして「マセガキ」「高校生」「大学生」が可愛がられないのもこのためである。
人は「高校生」「大学生」からほとんど成長していないということである。
なんとわかりやすいことだろうか。
人との関係は煙草と同じで最後に近づくほど不味くなる。
馴れ合いも考えものだが長く付き合うというのは好きでない限りお互いのためにならないだろう。
今日はベランダから中央線を眺めた。
すれ違う同じ色をした中央線の電車はいつか同じ方向に走るのだろうかと思った。
20170718 蛾と蟻
きょうはなんにもないすばらしい一日だった。
この言葉はゲーム『ぼくのなつやすみ』において何もせず1日の行動を終了させた際、主人公が自分の絵日記に書く言葉である。
この言葉通り筆者は今日は大便すらしなかった。
『ぼくのなつやすみ』の主人公ほど若くない者にとっては問題行為である。
1日の締めくくり、とりあえず外に出ようとコンビニへ向かう途中で蛾と遭遇した。見ての通り死んでいた。しかもマンションの3階付近であるにも関わらず、どこから現れたか、どこに住んでいるのかさえ分からない小さな蟻がせっせとその死体を運んでいた。
見たところ全身真っ黒であったので話題のヒアリではないだろう。
そもそも何故この蛾は死んだのか。
見たところ腹が潰れているように見える。こんな局所的な潰れ方人間の力なしであり得るのだろうか。正直、どうでもいいが。
蟻でさえ適応し難い環境で生きる努力をしているというのに自分は何なのだ。ともあまり思わない。
虫の写真を見ていたら気持ちが悪くなってきた。外で遭遇したゴキブリの事も思い出してなお気持ちが悪い。
小学生くらいの頃、マクロ的にしか物事を見ようとしていなかった年齢の頃であれば蛾を運ぶ蟻なんてものは日が暮れるまで飽きず観察できたものであった。
今では虫の顔だとか模様だとか質感をマジマジと見てしまい、終いには日が暮れるまで観察どころか筆者自身が夜行性だ。
人間の生活において、夜行性の者に許されている事はコンビニへ行く事と排便のみである。
きょうはなんにもないすばらしい一日だった。終。