男子手芸部

手芸部員1と2の生まれたことへの贖罪

平成29年8月18日

今日はベランダから中央線を眺めた。

雨が降っていたんだかどうだか忘れたがホームの人々は傘を持っていなかったような気がする。

今日は何人かの人に不義を働いてしまった。

ごめんなさい。

人に褒められるのは嘘だろうが嬉しいことだ。

人を褒めることも同様に気持ちよくなることができる。

人に否定されることは嫌なことだ。

人を否定するのも気持ちいいとは思わない。

自信のなさから人を否定ばかりして褒めることをしない人は最悪な部類である。

しかし近ごろの、いわゆる「ゆとり世代、さとり世代」と称される若い人たちは否定を怖れ聞き入れないようにしている傾向がある。

それはそれでよくない。

ジョハリの窓的な観点で言うと自分は認識していないが他人には見えている「自己」がありそれはよかったりよくなかったりする部分だ。

人の成長というのは現在の自分を否定し変えることだ。

つまり内省でカバーできない範囲は人に否定されるしかないのである。

ゆとり世代及びさとり世代は「肯定される教育」を受けてきたので否定を怖れるのは当然だがそれでは成長の範囲が狭まるということを明言しておこう。

あなたがたは当然ながら年配の人よりもモノを知らないし経験もない。

中高年や我々のような古い考え方の人間は「自分は知ってる、自分はわかってる」というような態度をとられると腹が立つのだ。

いま現在、社会において立場が上なのは中高年であって、いくら実力があってもあなたがたそこらへんの若い人々にはなんの権力もなくなにも決めることができない。

生きやすい世の中にするためにはまず我々の機嫌をとることが先決なのではないかと思うのだがどうだろう。

人の社会は人がつくっている。

人の社会をつくっているのは機械ではない。

実力、個性、そんなものは我々のような人間の前では塵同然だ。

少し考えればわかることだ。

今日はベランダから中央線を眺めた。