男子手芸部

手芸部員1と2の生まれたことへの贖罪

平成29年8月4日

今日と言うべきか昨日と言うべきか、ベランダから中央線を眺めていた。

真っ暗闇のなか仕事に追われPCとにらめっこしていると思えば数分前に研いだと思われた米が炊け、空が嫌というほど明るくなり、いつの間にか空港にいた。

もうなにがなんだか理解も追いついていない。

もううんざりだ、まるで我が人生のような日だ。

すべてに辟易している。

キーボードのタッチさえままならない、歯が痛い、前頭葉に水銀が入っているようだ。

勘弁してほしい。

しかし先程一時間は確かに生産性のある、脳をフルに用いた有意義な時間だった。

あれなにをしたっけ。

ああもうどうでもいい、静かにしてくれ、罰ゲームはこの素晴らしい人生だけでじゅうぶんだ。

いくらでも贖罪します。

おお、主よ、赦してください。

I've spent all my years believing you, but I just can't get no relief, Lord!

明日からは学園都市線を眺めることになりそうだ。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年8月3日

今日はベランダから中央線を眺めた。

電車や人の流れを見ていると一度流れた時は戻らないというのを実感する。

本音を言うと過ぎ去った1秒1時間1日1年などどうでもいい。

学生の頃に戻りたいと思う節もあるが他人に言われたときふと想像してしまうだけである。

時が流れているあいだこの先いつ死が我が家をノックしてくるだろうという考えばかりが先行してしまう。

こんなことはもう10年以上前からそうだ。

かと言って悲観的に日々を過ごしているわけでもなく社会に対し積極的な行動はできていると思うし能動的にそれを選ぼうとは思わない。

たぶん、"一般的な"、石油王になりたいとか有名人になりたいという思念と似ていると思う。

死に対してその先の苦難や未知の領域には全く想像がついていないししようとも思わない。

この文章を通してなにかを伝えたいわけでもなくただの雑感垂れ流しである。

とりあえず、不快な思いをせず徒に与えられた人生をのうのうと暮らしたい。

ジョハリの窓的にいうと右ふたつの領域がほぼなく自分のいいところも悪いところも全て知っているので誰にもなにも言われず過ごしたい、ああそれだけ。

今日はベランダから中央線を眺めた。

20170803 でかい蛾

おはようございます。と夏休みの時期なので私は元気な少年のごとく家を出た。

 

でかい。すごくでかい蛾がおはようと微笑み、言葉を返してくれた。

 

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 クチバスズメというやつらしい。モモスズメというやつによく似ているんだとか。

まあどうでもいいが。

 

こいつほど大きい蛾ならもはや美しさというか好意を感じる。

色は暗鈍であるが、フォルム、表情が良い。

他人に嫌われようが自分には関係ない。知ったことか。と言わんばかりの迫力は私を魅了してくれる。

 

それにこのクチバスズメ君、初めて見た日から4日ほどその場を動かなかったのだ。

その迫力のせいもあり私のここ数日はいつになく精力的であったように感じられる。

 

彼が離れてしまったことに気が付いた日には少しの寂しささえ感じた。

彼は私にかっこいい生き方を示してくれた。

 

寡黙、しかし大胆に。

 

今日はとっても楽しかったね。明日はもっと楽しくなるよ。

 

 

平成29年8月2日

今日はベランダから中央線を眺めた。

以前もこういうことがあったが、今日はひじ打ちや罵声を浴びせられるなどされた。

どうやら中央線ユーザーから嫌われているようだ。

あまりよろしくない人生を送っているのだなと同情してしまった。

昨日書こうと思ったことを思い出した。

二流の人間はなにをしても二流または二流以下なんだなということだ。

三流四流から二流まであがるのはある程度の慣れや知恵でどうにかなる。

二流から一流、超一流になるのは、ここが大事なのだが、気持ちの問題だと思う。

あらかじめ言っておくがこれはマネージャーや教育者の目線で、経営者などリーダーの目線ではない。

リーダーの目線だと気持ちなども含めすべて才能という言葉で片付けてしまうからだ。

自分もこう考えることがい多い。

しかし誰にでも可能性があるという考え方を用いると最も大事なのは気持ちということになってくる。

モチベーションと言い換えたほうがいいか。

なにをやらせても優秀な人間と真逆の人間がいる。

それは気持ちの問題だと、そういうことだ。

詳しく書くのは今は遠慮しておくが、簡単に言えばポジティブかネガティブかという問題である。

ポジティブはすべてを可能にし、ネガティブは不可能を呼ぶというものだ。

世にはバタフライ効果というものがある。

地球の裏側の蝶の羽ばたきで日本に台風が来る、というような例えを用いた、認識できないものが大きな出来事の原因になる場合があるということだ。

わらしべ長者も似たようなものである。

神は細部に宿る。

こんな自己啓発的な文章を書きたかったわけではないので反省するがなんとなく最近そんなことを思っていた。

ああ、今日はベランダから中央線を眺めていた。

平成29年8月1日

今日は一日中ベランダから中央線を眺めていた。

昼は暑かったし、日が暮れるとだんだん気温が低くなるのを感じた。

当然といえば当然なのだが、日光にあたっているのとそうでないのでは体感温度が全く違うんだなと思った。

駅のホームのベンチに座り休みながら電車を待つ人、駅を出て日傘をさす人、汗を流しそそくさと歩くスーツの人。

そんな感じだった。

人々はだいたい同じである。

男、女、若い人、老いた人、頭のいい人、わるい人、心が広い人、せまい人、できる人、できない人。

そんな感じだ。

現在の教育は個性を尊重だとかそんなことを大切にしているしそういう教育を受けてきたが、みんな同じだ。

個性なんてない、割合の問題だ。

あなたがすごいと思っている人も少し歩けばまたいるし、ビル・ゲイツだって古今東西見渡せば腐るほどいる。

そうやって成り立っている。

ただ多くの人に個性的だとかすごいだとか認識されることは人生において重要だしそのモチベーションは失ってはもったいないものだと思う。

「お前の代わりなんていくらでもいる」と言われる前に自分の代わりなどいくらでもいるという認識を持ってはどうだろうか。

それが偉大なる魂への第一歩だと思う。

始発に備え線路の点検をしているのが見える。

気持ちのいい夏の夜の風を感じる。

今日は一日中ベランダから中央線を眺めていた。

平成29年7月31日

今日はベランダから中央線を眺めた。

電車に乗り熱心にスマートフォン越しに世界を見ている人々を眺めた。

優しそうな顔をしてネットにヘイトを撒き散らしているのかとか、難しそうな顔をしてアダルトサイトを見ているのかとか。

そんなことばかり考えていた。

インターネット、特にSNSを見ていて幸せな気持ちになったためしがない。

そんなことを言いながらかれこれ10年以上インターネットと密接につながっていたわけだが、こんな普通の人々があんなにも吐き気を催すコンテンツを吐き出しているのかと思うと感心に近いものを感じる。

彼ら大衆が吐き出すのは一部の「何者」かが創造した価値の再評価―主に反感、またそれに対する反感である。

彼らの「議論」は承認欲求、闘争欲求など諸欲求の一時的な充足のみに用いられる全く無価値なものである。

すべてが受動的で、「何者」かが創造した価値基準にしがみつき異なった価値基準をもつ「何者」かにしがみつく人間といがみ合っている。

どうやらこの発見は1世紀半前にフリードリヒ・ニーチェが定義付けていたらしく非常に残念ではあるがこちらを見れば言いたいことが伝わるだろう。

いいかげん主体的に話をしない人間に嫌気が差してきた。

人よりも優れているからそれでいい、とタカをくくっているのではなく、一回きりの自分の人生なのだから自分を主人公にしてステージの上に立っていたい。

自分が主であることを自覚し、己の中で自分を自分たらしめるために自らの価値基準を定め絶対的評価を下そうと再認識した。

他人の真似をしなければ誰もが「何者」なのである。

奴隷たちは主体的人間を叩き奴隷に引き入れようとする性質があるが、確固たる使命を背負った主体的人間として、信念を持った人間として、なににも惑わされず生きていこうと思う。

ホームの人々はごちゃつきながら歩く。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年7月30日

今日はベランダから中央線を眺めた。

ホームでは人々が歩いていた。

今日はホームを歩いた。

今日も人と話した。

なにを話したかは覚えていない。

ただなんとなく楽しかった。それでいいと思っている。

日々がなんとなく楽しいということは素晴らしく、それだけ難しいことだと感じる。

幸せな生活とはそういうことだと思う。

今日はたいしてものを考える余裕がなかった。

幸せな思考とはこういうものだと思う。

なにが正しいか正しくないかはわからないが楽しい方向に進みたい。

日々はセミの羽音と換気扇の音とともにながれていく。

セミの羽音と換気扇の音くらいしか印象にない。

味気ない文章しか書けない。

特に表現すべきものはない。

明日は毎週楽しみにしている週刊誌の発売日だ。

今日はベランダからただ中央線を眺めた。