男子手芸部

手芸部員1と2の生まれたことへの贖罪

平成29年9月2日

今日はベランダから中央線を眺めた。

もうとっくに今日は昨日なのだが、思いついたときに書かないとすぐ忘れるので色々と後悔している。

最近はもっぱら政治というか国家について研究しているのだが最近話題のヒットラー我が闘争(1940年版)」の一節から論じたい。

自然は実に賢明にしかも残酷に人口を調整してゐる。即ち種々の困難を創造して弱者を殺し、強者だけを生かしておく。これはあらゆる種族を強くすることになる。
然し、神の善良な申し子たる人間共にはこれがわからない。即ち彼等は人工的に産児の数を制限して、生存競争と、自然の行う選択過程を妨害する。彼等が量を制限するのはよろしい。然し彼等は質に対してなんらの注意をも払わない。普通の弱者はおろか、最上級の弱者を維持するために、あらゆる努力が傾注されている。

然し、このような方法で自然の法則を破壊することはできない。より強い民族がこれらの弱小民族を駆逐するために出現するからである。
こんな方法で、ドイツ国民を生存させようと主張する者は、ドイツ国民からその将来を取り上げようとするも同然である。

つまりヒットラーは国民、すなわち種族の繁栄のためには血を流し争い他種族から奪い資源を増やすことが生物として健全だと言うのだ。

なにを主語に置くかによって考え方は変わるが、人類ではなく国家や種族を主語に置くのであればこの考え方はなるほど確かに健全なのだ。

今更だがヒットラーは歴史の大罪人のように扱われているがそれもヒットラーが戦に負け勝者、この場合主にユダヤ人という種族に駆逐されヒットラーの研究さえしていない(タブーとされている)現代人にすら否定されていると考えれば負けてもなおヒットラーの一節は皮肉にも正しいことが証明されている。

人口が増え資源が一気に尽きる前に「歴史に必然的に英雄として名乗りをあげる」ことが必要とされているのではと思っている。

明日以降も幅広く無偏見に研究を続けたい。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年9月1日

今日はベランダから中央線を眺めた。

やつれた人、キリッと胸を張った人、色々いるが自分はどう見られているのか気になることもある。

人は往々にして、一番好きな人も一番嫌いな人も鏡の前に立ったときに前に映る人間なのだが、自分の好きな人は他人からどう見られているのか気になるのは必然だ。

人は複数のことをいっぺんに考えること、特に反対のことを考えるのは苦手な生き物なので自殺してしまう人やナルシストと言われる人々は他人に認識されているときには自分のことが好きだとか嫌いだとかのどちらかの一面が色濃く出てしまうのだ。

また、ある特定のものへの感情というのは絶対値で決まっており、つまり自分のことが少ししか好きでない人間は自分のことが少ししか嫌いになれないし、逆もまた然りでそして他人や他も物事に関しても同様である。

大好きだった異性を大嫌いになることや大嫌いだった異性を大好きになることを経験したことはないだろうか。

どうでもいいが自分はこのごろ自分以外には全くと言っていいほど興味が持てずにいる。

どうしたものか。

これは割と大事なことなのだがなぜ大事かというのはまた今度にしたい。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年8月31日

今日はベランダから中央線を眺めた。

昨日のオーバードーズが関係しているのかしていないのかは専門家ではないのでわからないがすっきりとした、まるで生まれ変わったかのような、昨日までがリセットされたかのような目覚めとともに清々しい朝を迎えた。

書いてる途中で気がついたが今日は1日早い秋が訪れていたからな気もする。

そんな朝に反してこれを書いている今は陰惨とした(陰でもある、惨めでもある、まさに今の気持ちを的確に表した熟語。日本語万歳。)気持ちである。

特にこれといったことはなかった。

嬉々として朝食を作り、月末の面倒な作業も滞りなく終わらせ、風呂を掃除し、テレビゲームをしてお得意のメイドカフェに行って梅酒を煽っただけである。

特段珍しいことではないのだがとにかくいつものようにうざったい啓発文章を書く気にはなれないくらいには陰惨なのだ。

ああ、「とにかく」という接続詞だがこれを多用する人間にはロクなのがいないので信用すべからず。

はい、オチをつけた。

文化祭の実行委員だった中学の頃の数日間より断然短い今年の夏も明日で終わるらしい。

人生の時計はすでに正午を回った。

コンクリートの照り返しが蒸し暑い。

今日はなにもない素晴らしい日だった。

きっと来る8月32日

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年8月30日

今日はベランダから中央線を眺めた。

早いうちに書き留めておきたいので寝る前に書くことにする。

昼過ぎにオーバードーズをしてみた。

いわゆる好奇心によるサイコアクティブである。

成分は覚せい剤に代表されるエフェドリン、アヘンに代表されるコデインである。

予め記しておくが法律の範囲内である。

以下に簡潔に感想をまとめておくとする。

大まかな症状としては肝臓に負担をかけるため眠くなる、自分の声やイヤホンを通して聴くものにエコーがかかる、触覚過敏、目の下の血が引いていく感覚、pやmなどの一旦口を閉じるものの発音に際しvの発音になる、難しい文章が頭に入らない、などである。

巷で言われる幻覚や幻聴、高揚感、多幸感などは感じない。

服用してからおよそ10時間ほど経ったが禁断症状や副作用のようなものは眠気以外感じない。

第三者から見てどうかはわからないがこのように正常に文章は書けるし自分が中心の会議もふたつほど効率的にこなせたのでそこまで弊害はないように感じる。

ただ確実に肝臓を酷使していることと脳の機能が低下していることは感じられるのであまりいいものではないのは確かだ。

ニコチンなどは脳を活性化させるが(摂取していない場合は比較的萎縮する)カフェインやこの手の興奮剤というのは知的労働者には向いていない気がする。

そもそも肝臓がそれなりに強いためあまり効かないことがわかったので以降興奮剤を摂取することはないだろう。

ただサイコアクティブというのはまさにネットや出版物に書いていないことという特性があり非常に興味があるのでときどき体験するかとは思う。

趣向が全く違うものになったがこのブログ自体あくまでただの罰ゲームであり日記なのでみた方は批判するなり参考にするなりしていただきたい。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年8月29日

今日はベランダから中央線を眺めた。

それなりの歴史を重ねてきた見知らぬ土地の、沿線の駅や線路にどこか懐かしさを感じる。

小さい頃から百科事典を見るのが好きで、現在もネットの論文やウィキペディアの関連項目を暇さえあれば延々と漁っている。

最近は室町時代付近の歴史を詳しく見ていて、応仁の乱あたりの成り行きを再現して10年弱のスパンで地方活性の参考にしようかという計画を練っている。

このように古きを温ね新しきを知るということはとても大切なことだと思っている。

努力というのはたった80年程度しか生きれない人間にとって限界というものが最初からある。

しかし人類というスケールで見れば500万年、言語ができてから3万年も歴史を積み重ねてきた。

つまり人間が思いつく程度のことであれば歴史を見れば答えがすでに書いてあるのだ。

これからすべきなのは答えを知っているテストに書き写す努力だけである。

形を変えても歴史というのは本質的には繰り返すのだ。

歴史を繰り返すという事実さえ歴史は語っている。

さあ明日は字をきれいに書く練習でもしようか。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年8月28日

今日はベランダから中央線を眺めた。

いつも眺めているが、ホームを歩いている自分を眺めることもある。

メタ認知というのをご存知だろうか。

メタな認知、つまり認知を認知するということである。

教育学会では10数年ほど前からこれが重要とされており、メタ認知能力を鍛える教育を推進してきた。

スポーツや勉学において自分がなにを知らないかを知るというメタ認知ができるか否かによって成績の良し悪しが決まるというデータが実証されているのだ。

勉学以外でもこれは自らの精神的成長や知識の吸収などにおけるかなりのウェイトを持っていてメタ認知能力の有無は無視できないものといえる。

出世できるか否かというのもこれであり、メタ認知能力があれば人からどう見られているかとか自分がこれからなにをすればいいかとかいうのが考えられ、先の行動に移せる。

今回は特になんのメッセージもない。

勉強できない人、空気読めてない人、仕事できない人。

メタ認知能力低いんじゃないですか。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年8月27日

今日はベランダから中央線を眺めた。

仲よく腕を組んだカップルがいた。

自分が悪口を言われるのはどんなことだろうが堪えるが、それ以上にやっかいなのは家族や恋人、友人など自分が好意を持っている人間に対しての赤の他人の悪口だろう。

一般的な感覚かどうかは知らないが、善良な市民であれば、心が痛むはずである。

そのようなことをされれば、たとえそれが悪意に満ちていても、嘘であっても、看過できなくなる。

インターネットが普及してからというもの、自分が加わっていない地球の裏側で行われた井戸端会議の内容を覗いたり、口を出したりできるようになってしまった。

というのも今日自分が好意を抱いている相手の悪口を偶々発見してしまったのだ。

書き込んだやつをどうにかしてやろうと思ったし、家族や恋人でもないのに自分のことのように腹が立ったし、次からその悪口を言われた相手に対しそういう目で見てしまいそうだとも思った。

これはいつものような説法でも示唆でもなんでもなく一人間としてのただの悩みの吐露である。

被害者にも加害者にもならぬよう不用意な検索や書き込みはやめよう、切実に。

今日はベランダから中央線を眺めた。