平成29年8月26日
今日はベランダから中央線を眺めた。
スーツを着た人、女の人、少年、老人、様々な人がいた。
社会には様々な価値観が存在するが自ら考えたものというのは実は一般的には皆無で何かしらの影響によるものである。
その代表的な例として、女性の美しさについての価値観がある。
現在の日本では西洋人のような大きな目、幅広い口、小顔、筋の通った鼻がよいとされているが明治維新が起こる前、つまり西洋の文化が取り入れられる前までは能面にみられる面長、下膨れ、切れ長の細い目、小さな口がよいとされていたのだ。
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
こんな歌を謳ったあの小野小町もいまでは美人扱いなど到底されないだろう。
美しいか否かの基準は文化レベルにも依り、例えばアフリカ諸国などの貧困国では太った女性が美人とされ、我々が信じて疑わない価値観というのはこんなにも脆いものであるというのを思い知らされる。
明治維新で西洋化し終戦によりアメリカの属国となった今や着物など博物館物であり、思想や文化まで完全に言いなりである。
もっと小さい視点で見れば、例えばあなたの買ったその洗剤や服やゲームは自分で買ったのだと思っているかもしれないが錯覚にすぎず、企業に、小売店に買わされているというのが実際だ。
大学に行くだとか、大企業で働くだとか、ブランド物を買うだとか、恋人と別れるだとか、全て自分で考えたことではなくなにかの受け売りだということはもはや自明である。
「自分で考える」ということの純度を高めるにあたって、根本から考え本質を見極めてほしい。
何かに影響されることは楽で幸せではあるが自分本位に生きるためには、ここまで読んだからには、それを受け止めてほしい。
端から意味などない人生だが、意味をこじつけることくらいはできるはずだ。
意味のないものに価値などない。
価値ある余生を。
今日はベランダから中央線を眺めた。