男子手芸部

手芸部員1と2の生まれたことへの贖罪

平成29年7月31日

今日はベランダから中央線を眺めた。

電車に乗り熱心にスマートフォン越しに世界を見ている人々を眺めた。

優しそうな顔をしてネットにヘイトを撒き散らしているのかとか、難しそうな顔をしてアダルトサイトを見ているのかとか。

そんなことばかり考えていた。

インターネット、特にSNSを見ていて幸せな気持ちになったためしがない。

そんなことを言いながらかれこれ10年以上インターネットと密接につながっていたわけだが、こんな普通の人々があんなにも吐き気を催すコンテンツを吐き出しているのかと思うと感心に近いものを感じる。

彼ら大衆が吐き出すのは一部の「何者」かが創造した価値の再評価―主に反感、またそれに対する反感である。

彼らの「議論」は承認欲求、闘争欲求など諸欲求の一時的な充足のみに用いられる全く無価値なものである。

すべてが受動的で、「何者」かが創造した価値基準にしがみつき異なった価値基準をもつ「何者」かにしがみつく人間といがみ合っている。

どうやらこの発見は1世紀半前にフリードリヒ・ニーチェが定義付けていたらしく非常に残念ではあるがこちらを見れば言いたいことが伝わるだろう。

いいかげん主体的に話をしない人間に嫌気が差してきた。

人よりも優れているからそれでいい、とタカをくくっているのではなく、一回きりの自分の人生なのだから自分を主人公にしてステージの上に立っていたい。

自分が主であることを自覚し、己の中で自分を自分たらしめるために自らの価値基準を定め絶対的評価を下そうと再認識した。

他人の真似をしなければ誰もが「何者」なのである。

奴隷たちは主体的人間を叩き奴隷に引き入れようとする性質があるが、確固たる使命を背負った主体的人間として、信念を持った人間として、なににも惑わされず生きていこうと思う。

ホームの人々はごちゃつきながら歩く。

今日はベランダから中央線を眺めた。