男子手芸部

手芸部員1と2の生まれたことへの贖罪

平成29年10月9日

今日はベランダから中央線を眺めた。

特に書くことがないと思ったが人気ユーチューバーも毎日欠かさず面白い動画を投稿しているのでひねり出して書こうと思う。

使えない人間というのがいる。

何度言ってもちゃんとした仕事ができないのだ。

仕事ができるできないというのは気持ちの問題というのが大きい。

それを加味した上でマネジメントをしてもある一定以上のクオリティの仕事ができない人間がいる。

それを見た自分と似たような立場の別の人間は、彼にはセンスがないと言っていた。

センスとはなんだろうか。

持論だがセンスというのは知識や経験則の奥深いものだと思っている。

それは幼稚園児の頃に体験した芸術や親の言動なのかもしれない。

よく読んでいないので知らないが「賢さ」というのが6割遺伝であるという論文もある。

平等など生まれた時点から存在しないのだ。

格差があって結構。

人間だもの。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年10月8日

今日はベランダから中央線を眺めた。

昔からなのか知らないが価値のあるものに対して対価を用意できない人間が多い気がする。

メリットデメリットだけで動く人間というのもそれはそれで気持ち悪いが行動原理など元を辿ればメリットデメリットなのだ。

全くメリットのない提案をしてくる人間は与えられることに慣れすぎて頭がおかしくなってしまったのだろうか。

しまいにそういう人間はそれを断れば不機嫌になる。

募金や一部のNPOに関してもそうだ。

なぜわざわざ低い文化レベルを保っているような国に支援をしなければいけないのか。

なぜ経済社会に存在しない人間を助けなければならないのか。

理由の明確でないなにかを正当化する人間。

それを否定する者を悪と言う人間。

今日も地球は回る。

人は生きる。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年10月7日

今日はベランダから中央線を眺めた。

昨日書いた文章を引用する。

立憲民主党の運営陣賢い。
希望の党と立憲民主が連立で自民をひっくり返すのが世界情勢的にも一番キツいけど、ボトムアップの見せかけじゃない民主主義が本当にロクでもないことを証明する反面教師的存在になるなら断然支持する、今じゃなければ。

実際メディアが報じてる「無責任解散」の真意は北朝鮮情勢を踏まえた「有事解散」で12月に行き場をなくした北とアメリカが開戦することがほぼ確定してるから12月までに安定させるだけに解散しただけ。
報道しないのはメディアがバカなのとパニックおこるからという理由。

ちなみに日本は別に危険に晒されない。
あと麻生さんの「武装難民は射殺する」というのは外務省のお達しなので警察は難民を射殺します。
来月中旬あたりに北がまたミサイル発射する可能性高いのでそれが発射されたら開戦はほぼ確定。
それまでに北が水爆実戦配備した場合開戦しないかも。

むやみにこういうことを宣うと統合失調症を疑われかねないのであまり言わないようにしている。

ただ特に嘘を言っているわけでもなく自分がどんな人間かは言えないがソースも確かなのだ。

こんなこと話半分にきかれるかもしれないしそもほも理解できないだろう。

そんな国民に嫌気がさしてきた。

これが実情である。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年10月6日

今日はベランダから中央線を眺めた。

日本死ね」などで話題になった待機児童問題。

ドイツでは児童の声は法律上騒音と見做さないことで解決したらしい。

別に日本がどうだとか海外がどうだとか言うつもりはない。

しかしこの場合においては本質を見据えフレキシブルな対応をしたドイツ当局及びドイツ国民を見習うべきだろう。

なにも本質を見ることができないとは思っていない。

本質を理解できないことが悪いと言っているわけではない。

本質を理解できないように教育した人間が悪いのだ。

それが誰とは言わないが本当にひどい仕打ちである。

今日はベランダから中央線を眺めた。

2017年10月5日

今日はベランダから中央線を眺めた。

教育というものに疑問を抱くことが多い。

実を言うと小学生の頃から教育というものに疑問を感じていた。

小中高と問題児扱いされことあるごとに指導を受けてきてすべて右から左に受け流していた。

それは障害者学級の生徒が泣き出したとき問題児である自分がなにかをしたのだろうと決めつけられ林間学校のバス内で3時間ほど指導されたことから始まったのかもしれない。

狭量な我が人生においてかの教師を許すわけにはいかない。

笑顔で歌えと言いながら怒る音楽教師、6年間やっても誰も喋ることができない英語、完食するまで解放されない給食、夢を否定する進路指導。

教育とは人を不快にさせることなのだろうか。

甚だ疑問である。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年10月4日

今日はベランダから中央線を眺めた。

ハンムラビ法典に目には目を歯には歯をというタリオの法なるものがある。

最近思うのは刑罰などと言うものがなくてもこの目には目を歯には歯をという罪を犯したものには同程度の罰を与える仕組みは作用しているのではないかということだ。

人は人を守るために法を作ったが良いことと悪いことを明記しただけなのである。

人は悪意を汲み取りそれを嫌悪する能力がある。

批判した者は批判されるし嘘をついた者は嘘をつかれるのだ。

遅かれ早かれ悪意を放った者は悪意を受け、悪意を受けた者は悪意を放つのだ。

それは1対1だけでなく100対1かもしれないし1対1対1かもしれない。

悪意というのはまるで空気のように圧の高いところから低いところへ浸透し平衡状態になる。

悪意だけでなくその他の感情もそうかもしれない。

情けは人のためならずということわざにあらわされるように。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年10月3日

今日はベランダから中央線を眺めた。

悩みのメカニズムというのをどこかできいたのを思い出した。

未来が予想できないもしくは確定されていないから悩むという旨のものだ。

当たることが確定している宝くじを買わない理由はあるだろうか。

つまりそういうことらしい。

自分は他人が悩みそうなことを悩まずここまでやってきた。

意識の高い新書などではこれを意思決定力と言うだろう。

読んだことがないのでわからないがたぶん意思決定力というのは自信で、それには楽観や知識というものが求められるのだろう。

なぜこれを思い出したのかを探ってみると、優柔不断な自分にそんなものがあると思えなかったからだ。

言い表せぬ自信というか少年特有の全能感を未だに持っているがそれを裏付けするものが未だない。

実績だけがなぜかついてきてそれを壊したくないために子供のような気持ちでいる。

この先が不安だ。

悩む。

今日はベランダから中央線を眺めた。