男子手芸部

手芸部員1と2の生まれたことへの贖罪

平成29年10月7日

今日はベランダから中央線を眺めた。

昨日書いた文章を引用する。

立憲民主党の運営陣賢い。
希望の党と立憲民主が連立で自民をひっくり返すのが世界情勢的にも一番キツいけど、ボトムアップの見せかけじゃない民主主義が本当にロクでもないことを証明する反面教師的存在になるなら断然支持する、今じゃなければ。

実際メディアが報じてる「無責任解散」の真意は北朝鮮情勢を踏まえた「有事解散」で12月に行き場をなくした北とアメリカが開戦することがほぼ確定してるから12月までに安定させるだけに解散しただけ。
報道しないのはメディアがバカなのとパニックおこるからという理由。

ちなみに日本は別に危険に晒されない。
あと麻生さんの「武装難民は射殺する」というのは外務省のお達しなので警察は難民を射殺します。
来月中旬あたりに北がまたミサイル発射する可能性高いのでそれが発射されたら開戦はほぼ確定。
それまでに北が水爆実戦配備した場合開戦しないかも。

むやみにこういうことを宣うと統合失調症を疑われかねないのであまり言わないようにしている。

ただ特に嘘を言っているわけでもなく自分がどんな人間かは言えないがソースも確かなのだ。

こんなこと話半分にきかれるかもしれないしそもほも理解できないだろう。

そんな国民に嫌気がさしてきた。

これが実情である。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年10月6日

今日はベランダから中央線を眺めた。

日本死ね」などで話題になった待機児童問題。

ドイツでは児童の声は法律上騒音と見做さないことで解決したらしい。

別に日本がどうだとか海外がどうだとか言うつもりはない。

しかしこの場合においては本質を見据えフレキシブルな対応をしたドイツ当局及びドイツ国民を見習うべきだろう。

なにも本質を見ることができないとは思っていない。

本質を理解できないことが悪いと言っているわけではない。

本質を理解できないように教育した人間が悪いのだ。

それが誰とは言わないが本当にひどい仕打ちである。

今日はベランダから中央線を眺めた。

2017年10月5日

今日はベランダから中央線を眺めた。

教育というものに疑問を抱くことが多い。

実を言うと小学生の頃から教育というものに疑問を感じていた。

小中高と問題児扱いされことあるごとに指導を受けてきてすべて右から左に受け流していた。

それは障害者学級の生徒が泣き出したとき問題児である自分がなにかをしたのだろうと決めつけられ林間学校のバス内で3時間ほど指導されたことから始まったのかもしれない。

狭量な我が人生においてかの教師を許すわけにはいかない。

笑顔で歌えと言いながら怒る音楽教師、6年間やっても誰も喋ることができない英語、完食するまで解放されない給食、夢を否定する進路指導。

教育とは人を不快にさせることなのだろうか。

甚だ疑問である。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年10月4日

今日はベランダから中央線を眺めた。

ハンムラビ法典に目には目を歯には歯をというタリオの法なるものがある。

最近思うのは刑罰などと言うものがなくてもこの目には目を歯には歯をという罪を犯したものには同程度の罰を与える仕組みは作用しているのではないかということだ。

人は人を守るために法を作ったが良いことと悪いことを明記しただけなのである。

人は悪意を汲み取りそれを嫌悪する能力がある。

批判した者は批判されるし嘘をついた者は嘘をつかれるのだ。

遅かれ早かれ悪意を放った者は悪意を受け、悪意を受けた者は悪意を放つのだ。

それは1対1だけでなく100対1かもしれないし1対1対1かもしれない。

悪意というのはまるで空気のように圧の高いところから低いところへ浸透し平衡状態になる。

悪意だけでなくその他の感情もそうかもしれない。

情けは人のためならずということわざにあらわされるように。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年10月3日

今日はベランダから中央線を眺めた。

悩みのメカニズムというのをどこかできいたのを思い出した。

未来が予想できないもしくは確定されていないから悩むという旨のものだ。

当たることが確定している宝くじを買わない理由はあるだろうか。

つまりそういうことらしい。

自分は他人が悩みそうなことを悩まずここまでやってきた。

意識の高い新書などではこれを意思決定力と言うだろう。

読んだことがないのでわからないがたぶん意思決定力というのは自信で、それには楽観や知識というものが求められるのだろう。

なぜこれを思い出したのかを探ってみると、優柔不断な自分にそんなものがあると思えなかったからだ。

言い表せぬ自信というか少年特有の全能感を未だに持っているがそれを裏付けするものが未だない。

実績だけがなぜかついてきてそれを壊したくないために子供のような気持ちでいる。

この先が不安だ。

悩む。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年10月2日

今日はベランダから中央線を眺めた。

ラスベガスで20人が死んだ。

200人が大怪我をした。

70億人いる直径1.3万キロ地球で。

130億光年以上もあり今なお広がり続ける宇宙で。

人は生まれる。

人は死ぬ。

正直ニュースを見たときは他人事にしか思えなかったしゲームだったら2000ポイントもらえるなとかしか思わなかった。

殺された人間は本当に価値があるのか。

自分には価値があるのか。

人類史はじまって何人生まれて何人死んだか。

夢の中で何度も死んだ。

非常にリアルだった。

殺される瞬間はすぐに死を受け入れた。

人間とは実に自己中心的である。

果たして我々が思うほど我々には価値があるのだろうか。

物体が意思を持って動いているだけである。

意思とは一体なんだろう。

なぜ存在するのだろう。

目的はなんなんだろう。

人間原理というのがある。

人が認識したものだけが存在を認められるというものだ。

我々は人間以外のなにに認識されているのだろう。

生まれることに意味などない。

生きることに意味などない。

死ぬことに意味などない。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年10月1日

今日はベランダから中央線を眺めた。

誤解とは最も面倒臭い事象のひとつだ。

英語を和訳したような文章を書いて申し訳ないがその通りなのだから許していただきたい。

いつものように10人中2人くらいしか理解できないユーモアを含ませる余裕もないので直接書かせていただく。

約分しろよ。

さて社会で生きるにあたって人との接触は不可避だが意図しないものが他人に解釈されてしまうことがある。

これが誤解なのだがこのいわゆる誤解というのは二者間で直接のコミュニケーションがない場合に多くみられる。

正確には直接のコミュニケーションがある場合はすぐに解かれる場合が多いと言ったほうが良いだろう。

悪いタイプの誤解を抱かれた場合通常のコミュニケーションをすることすら難しくなるため解くのが面倒である。

この先書くのも面倒だ。

つまりいまそういう状況である。

ああめんどうだ。

このブログで面倒臭いと何度言ったことだろうか。

今日はベランダから中央線を眺めた。