男子手芸部

手芸部員1と2の生まれたことへの贖罪

平成29年9月15日

今日はベランダから中央線を眺めた。

このごろ、というかもう数年そうだが頭を使うような出来事があまりなくボーッとしているような感覚だ。

起きてるのか寝てるのか、生きてるのか死んでるのか、そんな感覚だ。

具体的なものがなにもなく、必然的にいつもに増して抽象的なことしか書けない。

やったことといえば、出社をサボり米を炊いてゲームをしただけだ。

本当にそれ以外なにもしていない。

あと200文字書くこともない。

目も半開き〜な感じである。

あ、いま思い出したので少し書こう。

いい歳こいて人見知りだとかコミュ障を自称する人類へ。

誰もお前のことなど見てないしそんな保険かけたところでしょうもない人間がしょうもなくしょうもない人間になるだけなので今スグやめたほうがいい。

いきなり人見知りだのコミュ障だの言われたこちらがなぜ気を遣わなければならないのだ。

こちとら極力誰とも話したくないのだ。

社会に出てくるな。

そんな感じ。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年9月14日

今日はベランダから中央線を眺めた。

制服を着た学生が輝いて見える。

久々に学生だったころを思い出した。

学生の頃は恋人などいなかったが、それでも毎日楽しかった。

つまらない授業をきかされたこともろくに睡眠時間もとらず遅刻した毎日も陰口を叩かれ無視されたことすらも楽しく思えた。

好きな人間とも嫌いな人間とも毎日顔を合わせる機会などあの十数年しか、少なくとも我が人生においては存在しない。

こうやって過去に未練を残すだけの人生ならば苦しいだけだ。

さっさと辞めてしまいたい。

自分のようにどうしようもなくどうしようもない人生を歩んだ先人にアドバイスをいただきたいものだ。

ケータイを見ないとか電話を切るとか、人とのコミュニケーションを拒んでいる割にはそれを欲しているのだ。

世の中は矛盾でできていると以前ブログで語ったが人は矛盾を好まないのだ。

こんな矛盾だらけの人間に誰が魅力を見出すというのだろうか。

もうなんかどうでもいいしつまらない。

どうでもいい。

今日決めたことがある。

将来の夢は世間を騒がす大悪党です。

今日はベランダから中央線を眺めた。


Queen - Somebody To Love (Official Video)

平成29年9月13日

今日はベランダから中央線を眺めた。

何度も言うがこのブログはただの一中央線ユーザーの雑感なので見苦しいものもあるかと思う。

今朝自分のつくったものが某経済新聞に載ったと報告を受けた。

自分やそれに関連することが新聞に載ったことなど両手で数えられる程度なのだが特別珍しいこととも思わずWeb版のURLだけパブリッシュして記事などほとんど目を通すこともしなかった。

記事を見たくないとか時間がないとかいうことではなくなぜだか興味が湧かなくなった。

はっきり言って自分の会社は上場企業でもないので新聞に載ったことは自慢でもあるのだが本当に興味が湧かなかった。

たぶんこの後読みたくなった時に目を通すのだろうが、今までだったらすぐ読んでいただろうものを読まなくなったことに成長のようなものを感じたのだ。

いまの気持ちを例えるなら、好きだった異性に逆に自分が好きになられ急に好きではなくなったという感じだ。

たぶん、いままで目標にしていたなにかが叶ったのだろう。

なんでも目標を達成してきたわけではないが、昔から無理だろうという目標を設定してきた。

苦戦を強いられるのが好きなのだ。

このだれに向けて書いているのかわからないブログにしても勝手に罰ゲームとしてやっているだけだがやるからにはなにかしらで成果を出そうと思っている。

ああ恋がしたい。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年9月12日

今日はベランダから中央線を眺めた。

性格の悪そうな人は見かけるが変な人間は見かけない。

自分が住んでいるところは特に高級なわけではないが一応高級住宅地に住んでいる。

そのせいか生活水準の低そうな人がおらず要するに大多数が"平均以上"の人間で構成されているというわけだ。

自慢でもマウンティングでもなんでもないことを先に言うが、小学校の頃からいわゆるお受験校だったので平均や平均以下という環境にいたことがほとんどないのだ。

ところがインターネットが大衆に普及して以降多少なりとも関わりを持つようになり、現実を知った。

政治家に対し、「私たちの気持ちなんてわかるわけない」と大衆は宣うがそんなもの当然なのだ。

生きている世界も常識もなにからなにまで違うのだから。

解決策もなにも考えてない上にただの感情論だが関わるだけで不快になるような人類とは正直一生関わりたくないし世界を隔てるべきな気がしている。

リヒテンシュタインルクセンブルクなどそう思う人間だけで構成された国が既にありアメリカでも街があるらしいが日本でもやってみたいと思う。

こんな差別的な文章を書くつもりではなかったがそういう気持ちなので書かせていただきたい。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年9月11日

今日はベランダから中央線を眺めた。

高校生くらいの男子が、この街を買うことが夢だとか、そういう話をしていた。

夢を明確に持っている人というのはどれくらいいるのだろう。

一度雑誌の取材で、夢は幸せな家庭を築くことですと答えたらボツになった記憶がある。

経済的な内容の新聞だったので経済的な野望をきかせろという話なのかもしれないが納得がいかなかった。

若いからと言って夢が大きくなければならないことはないし逆もまた然りである。

白か黒のハイテクセダンに乗って恋人を職場に迎えに行くのだ。

たとえゲイツザッカーバーグとの商談だとしても恋人が風邪を引けばヘリで飛んでいくのだ。

人の幸せというのは小さなところに存在する。

それは、ハワイでも、ディズニーでも、ビアガでもない。

ご近所さんの「おはようございます」だったり、帰る家の電気がついていることだったりする。

そんな夢のような日々を過ごしたい。

今日はベランダから中央線を眺めた。


Queen - Good Old Fashioned Lover Boy (Top Of The Pops, 1977)

平成29年9月10日

今日はベランダから中央線を眺めた。

最近感覚が狂っていることに気がついた。

全く正常だと思いこんでいたものが異常だったというのは衝撃的、いやショックであった。

高校に入学したあたりから両親は自分になにも言わなくなったし、職業柄もう何年も自分を叱ったり命令したりする人間がいない。

こう考えると当然だったのかもしれない。

横柄な態度などは極力とらないようにしているが前提として自分が正しいという考えがあり、そこからものごとを考えたり言動をとったりしていた。

人が自分の命令をきいて当然、敬語を使われて当然、興味を持たれて当然、そんな認識だった。

こう書いてみるといかに異常かというのがわかったが、普通に生きて普通の幸せを享受するという強い願望ゆえ自分を見つめ直したいと心から思っている。

正直なところこんなこと考えたくもないしもしかしたらいままで書いたのもデタラメ、皮肉かもしれない。

そんな感じ。

考えごとをしながら眠りにつかんとするのは非常に気分が悪い。

ああバカバカしい。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年9月9日

今日はベランダから中央線を眺めた。

こう駅を眺めていると楽しそうな人や不機嫌そうな人などいろいろ見かける。

それぞれの生活背景などを勝手に想像し勝手な理解をしているのだが、一番見ているのが好きなのはどこか浮いている、アニメや漫画が表現するところの、目にハイライトがない焦点の合っていない人である。

なにかしらについて深く考えときになにかしらに絶望を抱いているのだなと、これまた勝手に想像してしまう。

というのも、自分は友人などに焦点が合っていないとか得体の知れない気持ち悪さがあるだとか言われてきてなんとなく共感できるからだ。

意図の見えない自分語りと頭の悪そうな文章に嫌気がさしているかもしれないが我慢していただきたい。

自分のような人間は楽しいことや嬉しいことに対して素直にそれを享受できない傾向があり、それはたぶん幼少期に他人から人より多く叱られたり裏切られたりしたからだと思っているがどうだろうか諸兄。

これは生物としてはリスクヘッジ的に正常なのだろうが完全に不幸そのものである。

とりあえず、今日は楽しかった。

そういうことにしたい。

もうこれ以上なにも考えたくない。

アルコールよ、大脳新皮質を超えろ。

今日はベランダから中央線を眺めた。