男子手芸部

手芸部員1と2の生まれたことへの贖罪

平成29年7月29日

今日はベランダから中央線を眺めた。

今日は雨が降っていた。

今日はいつもより人と話した。

人と話した。

仕事ではない話もした。

仕事ではない話を多くした。

人に自分の悩んでいることを話した。

人の温かみを感じた。

幸せそうな人を見た。

幸せな気持ちにはなれずいた。

胸が痛くなってきた。

酩酊状態なので駄文はご愛嬌。

いつか見返して恥ずかしくなるのだろう。

雨が降ると下を向いてしまう。

下を向いて家にむかう。

下を向くと気道がいくぶんか塞がり酸素量が減るのである。

雨の日に気分が落ち込むのは当然なのである。

今日は大きな花火大会があったらしい。

去年も雨だった。

特にいい思い出はない。

駅のホームには浴衣姿の男女がちらほら。

平静を保つつもりだったがああもう何もかも嫌になってきた。

楽しいことを書きたい、楽しいことを話したい。

駄文失礼致しました。

Each morning I get up I die a little. (朝目が覚めるたびに少しずつ死んでいる)

                                                             ―Queen/Somebody To Love

 


Queen - Somebody To Love Montreal Live 《日本語字幕》

 いまベランダにいます。

平成29年7月28日

今日はベランダから中央線を眺めた。

まったく公共交通機関というものは最悪であると言っていいほどろくなことがなかった。

知らぬ中年に30分ほど寄りかかられた。

知らぬ中年にいきなり叱られた。

知らぬ中年に足を踏まれた。

知らぬ中年の運転によりいやな街へ駆り出された。

知り合いの中年はみな良心的であるにもかかわらず知らぬ中年はみな素行が悪い。

知らぬ中年の世界は「最近の若いモンは」と言うのが挨拶らしい。

冗談ではない。

好青年風の佇まいをしているとけっこうな頻度で一方的な挨拶をかわされるのだ。

絵に描いたようなという表現に対して、マスとして実在するからこそその絵があるのだと言いたい。

知らぬ中年にも言葉という文化があるのでどうにか友好的な態度を示そうと試みるが知らぬ言語なので理解できずやむをえず無視してしまうことが多い。曰く、「オレガワカイコロワナア〜」

今度、東京外国語大学知らぬ中年語学科の友人にきいてみようと思う。

明日はきっといいことがある。そんな気がする。

前向きに生きよう。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年7月27日

今日はベランダから中央線を眺めた。

今日は珍しく終日外にいた。

帰宅しすぐに、いつの日かこぼした薬品で溶けたフローリングに脱ぎ捨てた衣類で花を咲かせながら歯を磨いた。

今朝自分を無事会社へと送り届けた憎き車両はどこかとベランダから睨みつけた。

ヒーロー映画で悪役を応援する自分がいる。

栄誉の死を遂げる戦士に憧れる自分がいる。

悲しいニュースに希望を見つける自分がいる。

自分はいわゆる本物だと思っている。

なんの信念もなく他人の言葉を、格好を、ストック、ストックし吐いているような人間とは違うと思っている。

自分は人の思考は理解していてその上誰からも理解されないと思っている。

自分は誰からも影響を受けず、影響を与えると思っている。

これを打ち砕かれてもそこから生を見出せると思っている。

自己に肯定の念はあるが他人に対しては肯定も否定も存在しない。

人の評価が気になる自分がいる。

明日も電車に乗ることになりそうだ。

明日は憎き電車が、映画の悪役が、テロリストが、数え切れないほどの人々からの恨みを買うことはないかと思っている。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年7月26日

今日はベランダから中央線を眺めた。

今日は灰色だった。

一日中どんより暗い灰色だった。

白でも黒でもない灰色だった。

そういえば自分の持っている服も灰色が多い。

暗いと心が沈む。

夏も中盤に差し掛かっている。

いつも通りなにも期待していない。

なににも期待せず自分だけ信じて生きていれば不幸の最大幅は小さくなると思う。

もちろん期待とは信用なので自分も他人から信用されなくなるが。

そろそろこうやって物事をいちいち深く考えるのを辞めたい。

そもそも哲学をし始めた人間は不幸でかわいそうな人間である。

幸せであれば生きる意味や価値など考えないのである。

尊敬するソクラテスニーチェも諸哲学者は皆現代で言う「陰キャ」である。

幸せがはちきれんばかりに有り余ってはちきれてしまって心にぽっかり穴が開いている私はそんなかわいそうな先人たちの考えを汲んでやろうと思っている。

そうすることで次世代の陰キャに希望を与えるのだ。

また明日も鬱屈とした空になりそうだ。

駅のホームの人々は相も変わらずである。

幸せすぎて心に穴が開いているような人間はおとなしくしていようと思う。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年7月25日

今日はベランダから中央線を眺めた。

日中も夕方も夜も眺めていた。

特に代わり映えはない。

通勤する人々で溢れる朝、優雅な昼夕、帰宅する人々で溢れる夜、つかの間の静けさ。

そうだ、世間は今日給料日だ。

誰か幸せなことがあっただろうか。

たいして生きているわけではない上に自分が幸せなわけではないが。

ここでひとつ、幸せになるコツをおしえよう。

自分が幸せでないとき、他人の幸せを願ってみるのだ。

社会で生きていく上で他人と関わることは免れないため、まず周りの人の幸せを願い、幸せになってもらえば自ずと幸せになれるという簡単な話だ。

先人はこれを、情けは人のためならず、と言った。

もっともこれができるのは潜在的に幸せな人だけであるという矛盾を孕んでいるのだが。

人は幸せを奪い合う。

歴史は繰り返す。

これは人類史はじまって以来終わることがないという点から帰納的に証明されている。

我々は進んでいるようで本質はなにも変わらない世界を生き死ぬのである。

通勤する人々で溢れる朝、優雅な昼夕、帰宅する人々で溢れる夜、つかの間の静けさ。

中央線は明日も平常通り運行するだろう。

今日はベランダから中央線を眺めた。

平成29年7月24日

今日と言っていいのかわからないが中央線を眺めた。

夜明けの少し湿ったベランダで。

今日、つまり7月24日は少し特別な日だ。

いや、特別だったと言うのが正しいのか。

私情だが今格段に眠く書いているのが極めて気怠い。

生まれてきたことへの贖罪、いわば人生を賭した罰ゲームとしてこの日記を書いているのでこれくらいがちょうどいいのかもしれない。

決してマゾヒストなわけではないがこのナルシスト的、マキャベリスト的内面をカタルシスとして書いているうちにある種の快感を覚えることもある。

話は逸れたがそれほど語るのも気恥ずかしいような、そんな日である。

思い返せば7年だか8年も前からこの日が少し特別で、気恥ずかしいような日であった。

だが今回からは去年までとは趣が違い、懐古的、はたまた心残りな日になる。今日はそうだった。

今日ほど昼前まで寝ていたことを、女と話したことを、一人で過ごしたことを、馬鹿馬鹿しく思った日はないだろう。

 

今日は一杯だけ強い酒を、一気に干した。

もうじき夜は明ける。

少し休んだかと思われた中央線は忙しなく始発の準備をはじめる。

始発のアナウンスはうるさいが子守唄代わりにして床に就くとする。

 

お誕生日おめでとうございます。

 

今日もベランダで中央線を眺めた。

平成29年7月23日

今日もベランダから中央線を眺めた。

日曜の夜はホームに人が少ない。

こんな蒸し暑い日がいつまで続くのだろうと思いながらがらんどうの中央線を眺めた。

きっと、こんな蒸し暑い日がいつまで続くのだろうと思っているうちにああ嫌な寒さがやってきたなと思うに違いない。

静かな日曜の夜は嫌なものを彷彿とさせる。

ああ、明日もこの線路の先で誰かが死ぬのか。

誰かは困惑し、誰かは怒り、誰かは同情し、誰かは悲しみ、そしてみんな忘れる。

社会はまわる。

世を客観的に見ていると自負している人間と同じようなことを書いてみる。

人の死は二度訪れる。

物理的な死と、記憶の死である。

人々に忘れられたとき完全な死が訪れる。

死を恐れた祖先は宗教を、文字を、記憶媒体をつくった。

人は死を恐れる。

魂の存在をほのめかすものを確証バイアスで信じるくらいに。

人は死ぬ、絶対死ぬ、必ず死ぬ。この世の命は幻に過ぎない

                 ―麻原彰晃

そんな当然のことに抗うため日々生きていこうと思う。

今日はがらんどうの中央線を眺めた。